Born To Be Wilde

The Life and Opinions of Oscar Wilde, Gent.

 

"It's that I have put my genius into my life; all I've put into my works is my talent"

Oscar Wilde

 

30th. Nov. 2004

Cimetière de Père-Lachaise

 

Dear C.3.3.

 長らく待ちぼうけをくったあげく、われわれは自分のために劣らず彼らのためにも手紙を書くことにしよう。長い囚われの間、ただの一行の便りもなく、われわれに苦しみを与えるようなものを除けば、何の知らせも言伝もなしにすごしたなどとは考えたくはない。われわれは待ち続けている。これを書き終えた後でも、その状況は変わらないだろう。けれども、われわれは何も責めたりなどしない。この手紙は告発や懺悔、後悔を目的にしているわけではないのだから。

それは彼らの時代の出来事であると同時に、われわれの時代のことでもある。われわれと彼らには一世紀もの隔たりがある。しかしながら、彼はわれわれの同時代人である。彼をめぐる考察は彼らとわれわれを同時に語ることである。

アレキサンドラ・ヴィクトリア・ウェッティン(Alexandra Victoria Wettin)がイングランド女王として一八三七年六月二〇日に即位する。若き女王は、当初、ホイッグ党首相ウィリアム・ラム・メルバーン(William Lamb, 2nd Viscount of Melbourne)に影響されていたが、アルバートフォン・ザクセン=コーブルグ=ゴータ(Albert von Sachsen-Coburg-Gotha) 一八四〇年二月一〇日に挙式して以来、時代の流れを好ましくないと信じる夫同様、保守党を信奉するようになっている。特に、ホイッグ党のジョン・ラッセル(John Russell, 1st Earl of Bedford)内閣の外相ヘンリー・ジョン・テンプル・パーマストン(Henry John Temple, 3rd Viscount of Palmerston)とは折り合いが悪く、とうとうラッセル卿が五一年に彼を解任する羽目になっている。ところが、この好戦的な男が民衆から人気があったため、逆に、女王陛下への信頼が揺らぐという由々しき事態を招いてしまう。五四年、宮殿の女主人がクリミア戦争への参戦を回避しようとしたことでさらに事態が悪化する。けれども、開戦と同時に、全面的に支持へと態度を変更するだけでなく、五七年、ヴィクトリア十字勲章を創設して退役軍人に授与して、人気を回復させ、アルバート公も議会から「女王の夫君(Prince Consort)」の称号を認められる。努力は報われるものである。しかし、”There's many a slip twixt the cup and the lip(好事魔多し)”の諺通り、一八六一年一二月一三日に腸チフスにより四二歳で死去すると、未亡人は、以降、人前に出ることを避け、公式行事もエドワード皇太子(Albert Edward Wettin)に代行させて、一九〇一年一月二二日に自身が亡くなるまで、フランクリン・ピアーズ合衆国第一四代大統領夫人ジェーン・ミーンズ・アップルトンさながらに、喪に服している。その間、一八七七年一月一日初代インド皇帝に即位しているように、保守党のベンジャミン・ディズレリー(Benjamin Disraeli)やロバート・アーサー・タルボット・ソールズベリー(Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquis of Salisbury)の帝国主義には好意的だったのに対し、自由党のウィリアム・エワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone)の民主化政策にはことごとく反対している。庶民の老人同様、加齢と共に頑固になっていったにもかかわらず、このポメラニアンの愛好家に対する民衆の人気は治世の最後の二〇年間に最高潮に達し、八七年の即位五〇周年と九七年の即位六〇周年は盛大に祝われている。

英国史上最長の六三年に及んだその治世期間は、他国に先駆けて発達した資本主義を背景に、一九世紀を「パックス・ブリタニカ(Pax Britanica)」と呼ばせるほど政治的・経済的・軍事的に最も発展した時代である反面、国内外で不穏な空気が漂っている。国外においては、インドを筆頭に世界各地の植民地を支配し、国内では、低賃金と劣悪な労働環境で女性や子供まで酷使されている。植民地の人々はかの傲慢な島国に対して怒りと無力感を抱き、労働者は組合を結成して資本家に待遇改善を要求するだけでなく、物騒にも、革命さえ試みている。勤勉と禁欲というプロテスタンティズムの倫理はブルジョアの道徳となっていたが、それは偽善と虚栄に満ちている。資本主義が欲望を刺激して成立していながらも、それを抑圧するという矛盾、すなわち神の死を前提にしておきながら、プロテスタンティズムの倫理を社会道徳にするという矛盾をヴィクトリア朝は抱えている。それは愛すべきチャーリーの「放浪紳士」のような不恰好さふさわしい時代である。この圧縮=開放という極端に異なる二つの顔がヴィクトリア朝のユニークな文化を生み出している。

この栄光と悲惨の混同した時代、ドーバー海峡の対岸でギュスターヴ・フローベールやギー・ド・モーパッサンが作成した近代小説の主流と違ったSFやミステリー、アドベンチャー、ホラーといったメロドラマが人気を博している。トリコロールの下においても、ジュール・ヴェルヌやモーリス・ルブランといったメロドラマ作家が活躍していたけれども、必ずしも主流ではない。アーサー・コナン・ドイル卿やHG・ウェルズ、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジョゼフ・コンラッドなどの作家の作品は、当時の社会的・歴史的な背景が反映されていながらも、今日の映画やテレビで何度もとりあげられているように、現代文学のプロトタイプである。ただ、それらは過去のメロドラマにないショッキングさを備えている。二〇世紀におけるそうしたメロドラマの盛衰は文学のみならず、オペラでも強調されている。ベーラ・バルトークの『青ひげ公の城』にしろ、ベルトルト・ブレヒト=クルト・ワイルの『三文オペラ』にしろ、ドミトリー・ショスタコヴィチの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』にしろ、エーリッヒ・コルンゴルトの『死の都』にしろ、ジョアッキーノ・ロッシーニの『セビリヤの理髪師』やジョルジュ・ビゼーの『カルメン』のような一九世紀の傑作オペラと異なり、サスペンス性に満ちたメロドラマである。わずか三四キロメートルしか離れていない両国であるけれども、政治主導で資本主義化が推進しているフランスに対し、イギリスは自由放任で発達した経済活動が支えている。サン・シモン主義者は封建制からの脱却に気乗りしない民衆を硬軟合わせて近代化させようとしているが、古典派経済学の信奉者は言われなくても勝手に一儲けするアイデアを実行しようとしているというわけだ。一九世紀とは異なり、現代社会は、市場の判断が多くのことを左右している通り、政治以上に経済が優先であり、その意味で、スクルージーの時代に生まれたメロドラマが二〇世紀文学の主流となる状況は不思議ではない。

 そのヴィクトリア朝を最も体現していた人物こそオスカー・ワイルドにほかならない。彼は、間違いなく、世紀末のスーパースターである。

 

  Get your motor runnin’

  Head out on the highway

  Lookin’ for adventure

  In whatever comes out way.

 

  Yeah darlin’, gonna make it happen

  Take the world in a love embrace

  Fire all of your guns at once

  And explode into space.

 

  I like smoke and lightnin’

  Heavy metal thunder

  Racin’ with the wind

  And the feelin’ that I’m under.

 

  Like a true nature’s child

  We were born, born to be wild

  We can climb so high

  I never wanna die

  Born to be wild

  Born to be wild.

Steppenwolf “Born to Be Wild”

 

 オスカー・フィンガル・オフレアティ・ウィルズ・ワイルドは(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde)は、その当時においてさえ、とびきりエキセントリックな存在である。作品以上に、その人目を惹くライフ・スタイルとアイルランド人気質のデッド・パン流の意見によって、社交界からジャーナリズムに至るまで、注目される。いまだ著作を刊行していない一八八〇年二月頃には、ロンドン社交界で、奇抜なファッションに身を固めた異彩な人物として注目を集め、『パンチ』誌が彼を揶揄する記事を掲載している。まだ公には何もしていないオックスフォードの卒業生が世間の話のネタになったのである。文学史に最も決定的に影響を与えたのは作品以上にこうした身振りである。作品を刊行してからも、彼は、いかなる場面であっても、ウィットと魅力に満ちた適格なフレーズで容赦なく相手をやりこめている。

 

Young men want to be faithful, and are not; old men want to be faithless, and cannot.

(“The Picture of Dorian Gray”)

 

My own business always bores me to death. I prefer other people's.

(“Lady Windermere's Fan”)

 

In the soul of one who is ignorant, there is always room for a great idea.

(“De Profundis: Epistola”)

 

Anybody can make history. Only a great man can write it.

(“The Critic as Artist”)

 

Whenever people agree with me, I always feel I must be wrong.

(“Lady Windermere's Fan”)

 

“To get back my youth I would do anything in the world, except take exercise, get up early, or be respectable”.

(“The Picture of Dorian Gray”)

 

The old believe everything; the middle-aged suspect everything; the young know everything.

(“Phrases and Philosophies for the Use of the Young”)

 

The soul is born old but grows young.

That is the comedy of life.

And the body is born young and grows old.

That is life's tragedy.

(“A Woman of No Importance”)

 

To love oneself is the beginning of a lifelong romance.

(“An Ideal Husband”)

 

Whenever a man does a thoroughly stupid things, it is always from the noblest of motives.

(“The Picture of Dorian Gray”)

 

A thing is not necessarily true because a man dies for it.

(“The Portrait of Mr. W. H”).

 

The world is a stage, but the play is badly cast.

(“Lord Arthur Savile's Crime”)

 

That is good of friendship if one cannot say what one means? Anybody can say charming things and try to pleasure and flatter, but a true friend always says unpleasant things, and does not mind giving pain.

(“The Devoted Friend”)

 

People are very fond of giving away what they need most themselves. It is what I call the depth of generosity.

(“The Picture of Dorian Gray”)

 

Fashion is what one wears oneself. What is unfashionable is what other people wear.

(“An Ideal Husband”)

 

There are many things that we would throw away, if we were not afraid that others might pick them up.

(“The Picture of Dorian Gray”)

 

One should always play fairly -when one has the winning cards.

(“An Ideal Husband”)

 

I like persons better than principles and I like persons with no principles better than anything in the world.

(“The Picture of Dorian Gray”)

 

Experience is the name everyone gives to their mistakes.

(“Lady Windermere's Fan”)

 

The artist is the creator of beautiful things. To reveal art and conceal the artist is art's aim.

(“The Picture of Dorian Gray”)

 

I like to do all the talking myself. It saves time and prevents arguments.

(“The Remarkable Rocket”)

 

Then one is in love, one always begins by deceiving oneself; and one always ends by deceiving others. That is what the world calls a romance.

(“The Picture of Dorian Gray”)

 

Good taste is the excuse I've always given for leading such a bad life.

(“The Importance of Being Earnest”)

 

Ambition is the last refuge of the failure.

(“Phrases and Philosophies for the use of the Young”)

 

Man can believe the impossible, but man can never believe the improbable.

(“The Decay of Lying”)

 

Man is least himself when he talks in his own person. Give him a mask, and he will tell you the truth.

(“The Critic as Artist”)

 

No great artist ever see things as they really are. If he did he would cease to be an artist.

(“The Decay of Lying”)

 

Every great man nowadays has his disciples and it is always Judas who writes the biography.

(“The Critic as Artist”)

 

彼はたんなる文学者ではない。一九世紀に入って、文学産業が発展し、作品を商品化したが、彼は最初に作家本人を商品化している。世間は彼に関心を持ってから、その作品にも興味がわく。文学は表現の追及のみならず、新たなエンターテインメントとしての可能性を獲得する。「人に知られた名前を持つということ。それは、現代では才能を持つことよりもはるかに重要なことだ。()それと知りつつ戦略的に失望と戯れ、制度としての文学を相手に自分の役割をとりあえず演じてみせること。それは文字通り聡明な姿勢というべきものだ。成熟したレアリズムとしてもよい、すぐれて現代的な視点だといえるだろう」(蓮実重彦『凡庸な芸術家の肖像』)。このマクシム・デュカンに向けられた意見は、むしろ、彼が完璧に実践している。彼はつねに話題の中心であり、彼自身「天分、名声、高い社会的地位、才気縦横、知的大胆さ」を備えていると自負するほどである。彼をモチーフにしたカリカチュアやポンチ絵、漫画、肖像画、挿絵、歌、ダンス、小説、演劇、詩、エッセイが次々に発表されている。世間は彼が何かしでかしやしないかと舌なめずりして待ち構えている。一八九一年、『ドリアン・グレイの肖像』が刊行されると、英米だけで、驚くなかれ、二一六本の書評が公表されている。君主や政治家、聖人でもないダブリン出身の男が英米のジャーナリズムを賑わせることは史上初めての出来事である。彼は時代のブームだったのである。

 そんな状況に平行して、彼は数多くのパブリック・イメージを創出している。この点で彼を上回る作家はいないだろう。ヘアスタイルやファッション、態度、文学的装飾などすべてにおいて探究心が旺盛である。医者だった父ウィリアムの遺産を自室の改装に使い、「磁器の完璧性を希求する」と主張し、青磁器を始め、ヒマワリやクジャクの羽根などさまざまな小芸術品が溢れ、肩まで垂れ下がった長髪、ヴェルヴェットのジャケット、半ズボンに絹の靴下、派手な留め具の靴で自身を着飾っている。その絵姿は、モノクロームながら、頬杖をついた一九八二年の写真が今に伝えている。あれはボギーの『カサブランカ』のポートレートと並ぶほど印象深い。そのユニークさから彼の作品を手にとっても、決して期待を裏切らない。もちろん、あざといとか反道徳的であるとかなどの理由で、スン・ジョン・アーヴィンのように、眉をひそめる読者もいるだろう。彼は時代の雰囲気をうまく汲みとり、人々を惹きつける作品を創作している。これは彼のキャリアと同時に作品をも宣伝する巧妙な作戦である。口うるさい評論家と見栄っ張りなブルジョアの好奇心を刺激し、虜にさせる。まったくうまいやり口だと言うほかない。人々は彼がいささかいかがわしい興行師なのか、それとも革新的で大胆不敵な芸術家なのかという疑問に悩まされている。金貨を受けとったのか、とんだ贋金をつかまされたのか疑心暗鬼だ。否定的な人は、彼の成功に対して、「ふん、グレシャムの法則通りだ!」と吐き捨てるに違いない。けれども、確かに、派手な自己演出と巧みな芸術性が混在している。彼はオピニオン・リーダーであると同時にファッション・リーダーである。すべての要素が溶け合って彼の言説を形成している。

 

We passed upon the stair, we spoke of was and when

Although I wasn't there, he said I was his friend

Which came as some surprise I spoke into his eyes

I thought you died alone, a long long time ago

 

Oh no, not me

I never lost control

You're face to face

With The Man Who Sold The World

 

I laughed and shook his hand, and made my way back home

I searched for form and land, for years and years I roamed

 

I gazed a gazely stare at all the millions here

We must have died alone, a long long time ago

 

Who knows? not me

We never lost control

You're face to face

With the Man who Sold the World

(David Bowie “The Man Who Sold The World”)

 

 ロンドンで時代の寵児として振舞っていた一八八二年、彼にアメリカ行きの話が舞いこむ。ウィリアム・ギルバートとアーサー・サリヴァンによる彼を諷刺した喜歌劇『ペーシェンス』(一八八一)がアメリカで上演されるようになったものの、審美主義者なるものがどのようなものか知らないアメリカ人のために、その実物を見せるタイアップ企画をロンドンの劇銃主ドイリー・カートが考案したからである。イベントには話題づくりが欠かせないというわけだ。審美主義のセールスマンよろしく、一八八一年一二月二四日、彼はリバプール港からアリゾナ号に乗り、翌年の一月二日、ニューヨーク港に到着する。

それは、一九六四年のザ・ビートルズの初渡米に匹敵する出来事である。実際、ジョン・レノンのシニシズムと辛辣なユーモア、ポール・マッカートニーのメロディアスな感覚、ジョージ・ハリソンのやわらかなフレーズ、リンゴ・スターの俳優の才能は彼の中にすべて見られる。

 

US customs officer: Do you have anything to declare?

Oscar Wilde: I have nothing to declare, except my genius!

 

一八八二年一月から一〇月まで、彼は全米中を講演旅行して回る。評論家からは冷たい反応だったが、毎回、一〇〇〇人以上の聴衆を集め、六一〇〇ドルもの大金を手にする。「イギリスの芸術復興」や「装飾芸術」というタイトルで、自らの審美主義をニューヨークの有閑階級からマサチューセッツの学生、コロラドの鉱山労働者までを相手に語っている。彼の華麗な容姿や美声、咀嚼能力の高さ、親しみやすい口調は聴衆のハートを鷲掴みにする。ときには、一部の聴衆が彼の真似をして待ち構えていると情報を仕入れると、わざとオーソドックスなスーツを着て登場し、「なんだね、そのみっともない格好は!」と連中を一喝する茶目っ気も見せている。イギリスのスターがアメリカで成功した最初の例であり、彼以降、スターは成功するためにはアメリカに行かなければならなくなり、チャールズ・チャップリンやヴィヴィアン・リー、ザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズといった映画俳優やロック・ミュージシャンが続く。

 

Golden years, gold, whop, whop, whop

Golden years, gold, whop, whop, whop

Golden years, gold, whop, whop, whop

 

Don't let me hear you say life's

taking you nowhere,

angel

 

Come get up my baby

Look at that sky, life's begun

Nights are warm and the days are young

Come get up my baby

 

There's my baby lost that's all

Once I'm begging

you save her little soul

Golden years, gold, whop, whop, whop

Come get up my baby

 

Last night they loved you,

opening doors

and pulling some strings, angel

Come get up my baby

In walked luck and you looked in time

Never look back, walk tall,

act fine

Come get up my baby

 

I'll stick with you baby for a thousand years

Nothing's gonna touch you in these golden years, gold

Golden years, gold whop whop whop

Come get up my baby

 

Some of these days, and it won't be long

Gonna drive back down

where you once belonged

In the back of a dream car

twenty foot long

Don't cry my sweet,

don't break my heart

Doing all right,

but you gotta get smart

Wish upon, wish upon, day upon day, I believe oh lord

I believe all the way

Come get up my baby

 

Don't let me hear you say life's

taking you nowhere,

angel

 

Come get up my baby

Run for the shadows, run for the shadows

Run for the shadows in these golden years

 

I'll stick with you baby for a thousand years

Nothing's gonna touch you in these golden years, gold

Golden years, gold whop whop whop [Repeat]

(David Bowie “Golden Years”)

 

彼はブルジョアでも、プロレタリアートでもないライフ・スタイルを提示している。それは一九二〇年代に顕在化する大衆社会の先取りである。彼は初のポップ・スターだと言っていい。一九世紀に二〇世紀のポップ・スターがタイム・スリップして出現したとしたら、世間の反応は想像するに難くない。彼の戦略は宣伝と言うよりも、広告である。前者が売名であるのに対して、後者は新たなライフ・スタイルの提示である。彼は審美主義がいかなるものであるかを解説するだけでなく、「どうです、こうしたライフ・スタイルをお試しになってみては?あなたにとって新たな潤いになることでしょうから」と語りかける。ジェームズ・マンゴールド監督の映画『ニューヨークの恋人』において、一八七六年のニューヨークから現代にタイム・スリップしてきた英国出身のレオポルド・アレクシス・エリジャ・ウォーカー公爵は、広告会社に勤める恋人のケイト・マッケイに勧められて、テレビCMに挑戦している。大衆社会は物質が溢れているため、提案型の広告を求めている。彼はその点で革新的である。デヴィッド・ボウイやブライアン・フェリー、モリッシー、リベラーチェ(Wladziu "Walter" Valentino Liberace)、エルトン・ジョンには明らかに彼が体現していたデカダンスの芸術性と広告が見られる。”Nobody will believe in you unless you believe in yourself(Liberace)”.テオドール・W・アドルノやマックス・ホルクハイマーは、『啓蒙の弁証法』において、大衆文化を痛烈に批判している。文化産業は社会変革へと向けられるはずの大衆のエネルギーを浪費させているだけでなく、大衆の意識を麻痺させて大衆操作の手段としている。モータリゼーションや電化に基づく大量生産=大量消費は人々を画一化させ、顔のない「大衆」という鋳型へと押しこむ。しかし、彼は階級社会に立脚した鼻持ちならないエリート主義を冷笑する。こうした主張こそ大衆社会特有のポーズであり、それを創始したのも彼自身だからである。彼はブルジョア的な物質主義や虚栄によって名声を得ていたにもかかわらず、そういった傾向に対してつねに「いかがなものか」と苦言を呈している。これは、以降、メディアで成功するスターの常識的な身振りとなる。彼が劇作を始めたのは、文学的・経済的理由はもちろんあるとしても、その非階級性にある。役者は、歴史的に、階級社会のイギリスにおいて非階級的存在である。役者は主人を持たず、劇場のオーナーと契約を結んでいる。しかも、役者は聖職者や王侯貴族、貧乏人、病人、幽霊にも化ける。彼は彼自身を演じる役者として芸術と現実で生きてみせる。彼は二〇世紀に到来する非階級的な生き方を提唱する。けれども、それは、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争に明け暮れる当時としてはあまりに突飛であり、理解し、受け入れられる土壌はまだ育っていない。

 

I tried but I could not find a way

Looking back all I did was look away

Next time is the best time we all know

But if there is no next time where to go?

She's the sweetest queen I've ever seen (CPL593H)

See here she comes see what I mean? (CPL593H)

I could talk talk talk talk talk myself to death

But I believe I would only waste my breath

Ooh show me

(Roxy Music “Re-Make Re-Model”)

 

彼のアメリカでの成功はかの共和国における階級性の弱さが理由の一つだろう。自称元ヨーロッパ貴族は大勢いたようだが、「丸太小屋からホワイトハウスへ(From Log Cabin to the White House)」の選挙スローガンを掲げて大統領に当選する人物がいる国では、誰かをだますとき以外はたいして役に立たない。アメリカの成上がり者たちはヨーロッパのよい血統欲しさに娘をリヴィエラに送りこんでいる。

小林秀雄は、『読者』において、ジャン=ポール・サルトルのアメリカに関する次のような回想を紹介している。

 

自分たちが、作家という天職を発見したのは、中等学校の中庭で、ラシーヌやヴェルレーヌを読み過ぎた為である。自分達は、既に出来上った文学で養われて来た。と言うことは、未来の文学も完成した状態で、自分達の精神から、やがて飛び出すという確信を育てて来た。作品とはめいめいの孤独を発表する手段という考えに慣れてきたが、アメリカに来てみると、事はあべこべらしい。例えば、西部で農場を経営している一人の女性が、孤独に堪えかねて、或は、自分の孤独の独創性を単純に信じ込み、これをニューヨークのラジオ解説者にぶちまけたら、どんなにせいせいするだろうと考える。アメリカの小説家達のやり方は、ほぼこれに似ているらしい。つまり、作品とは、孤独から解放されんが為の機会なのである。文学の仕事は、学校とも聖職とも何の関係もない。彼等の求めているものは、名誉ではなくて、寧ろ友愛と言った方がいいのではあるまいか。フランス文学が、正しくブルジョア文学なら、アメリカ文学をブルジョア文学と呼べるかどうかは疑わしいと言う。

 

 彼は小柄、痩身で青白い顔色の神経質な人物ではない。運動はそれほど得意ではなかったものの、一八〇センチメートルを超える長身で、肩幅も広く、がっちりとした大柄な体躯である。クリント・イーストウッドほどではないが、ウォーレン・ベイティのような体格であり、当時の西部の荒くれ者と接しても決して引けをとらない。実際、酒の飲み比べをして、勝っているほどだ、「西部劇というものが、ヨーロッパの人々にとってどれほど意味のあるものか、私にはよくわからない。しかし、アメリカを母国とするわれわれにとって、西部劇映画は、まさに国民生活のエッセンスそのものなのである」(G・N・フェニン=W・K・エヴァソン『西部劇』)。

 

America had often been discovered before Columbus, but it had always been hushed up.

 

America is the only country that went from barbarism to decadence without civilization in between.

(Oscar Wilde)

 

彼は容易には定義づけられない。「芸術のための芸術」や審美主義、デカダンスといった背景を持って登場しているけれども、彼のヴィジョンは独特である。辛辣で、センセーショナル、ユーモアに溢れた諷刺を作品に利かせながら、その形式は調和的であり、受け手を不快にさせない。彼は読者や観衆を鑑賞者と言うよりも、二〇世紀に顕在する消費者として認識している。消費させるために作品を生産する。いかなる文学領域でその才能を発揮している。詩や小説、演劇、童話、書簡は彼の文学に対する多彩な偏愛を示している。彼は近代小説を除く、すべてのジャンルを書いているが、それらはメロドラマないしそのパロディである。『ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)(一八九一)や『アーサー・サヴィル卿の犯罪(Lord Arthur Savile's Crime)(一八九一)はエドガー・アラン・ポーを思い起こさせるゴシック的な完璧と言っていい小説である。また、悲劇『サロメ(Salomé, Drame en un Acte) (一八九三))は、聖書の物語をエロティシズムによって脱構築し、アントナン・アルトーの残酷演劇の先駆的作品である。他方、『ウィンダミア夫人の扇(Lady Windermere's Fan)(一八九二)、『つまらぬ女(A Woman of No Importance)(一八九三)、『理想の夫(An Ideal Husband)(一八九五)、『真面目が肝心(The Importance of Being Earnest)(一八九五)の四つの代表的な喜劇では、手のこんだプロットと巧みなアイロニーとユーモアに溢れる対話によって構成されている。『理想の夫』の初演にエドワード皇太子が出席し、後の国王はこれをとても気に入り、この作品への検閲を禁止させている。さらに、彼は獄中で自身の意見と生涯を弁明した『獄中記(De Profundis; Epistola: In Carcere et Vinculis)(一八九三)を書き、これは書簡文学の最高傑作の一つに数えられている。釈放直後にフランスのベルヌバルで執筆した長編詩『レディング牢獄の唄(The Ballad of Reading Gaol)(一八九八)において、ジャン・ジュネの先祖ではないかと思われるような獄中生活の不毛と絶望が美しく力強い韻律で表現している。

 

And all the woe that moved him so

  That he gave that bitter cry,

And the wild regrets, and the bloody sweats,

  None knew so well as I:

For he who live more lives than one

  More deaths than one must die.

(“The Ballad of Reading Gaol” V)

 

商業的な成功は別にして、彼は絶頂時もスキャンダルで失脚してからも文学的能力は決して衰えていない。

 

Goodbye Norma Jean

Though I never knew you at all

You had the grace to hold yourself

While those around you crawled

They crawled out of the woodwork

And they whispered into your brain

They set you on the treadmill

And they made you change your name

 

And it seems to me you lived your life

Like a candle in the wind

Never knowing who to cling to

When the rain set in

And I would have liked to have known you

But I was just a kid

Your candle burned out long before

Your legend ever did

 

Loneliness was tough

The toughest role you ever played

Hollywood created a superstar

And pain was the price you paid

Even when you died

Oh the press still hounded you

All the papers had to say

Was that Marilyn was found in the nude

 

Goodbye Norma Jean

From the young man in the 22nd row

Who sees you as something as more than sexual

More than just our Marilyn Monroe

(Elton John “Candle In The Wind”)

 

 童話集『幸福な王子、そのほかの物語』(一八八八)について、イギリス審美主義を代表する作家ウォルター・ペイターは、一八八八年六月一二日付書簡において、その作者に感動を次のように伝えている。

 

今日は痛風のために部屋に閉じこもっていますが、「幸福な王子」で自分を慰めていました、そうして、わたしにはあの幸福な王子とその仲間たちが、どんなに楽しいものだったかをお伝えするためにペンをとらずには、恩知らずのような気がします。「すばらしいロケット」の聡明な機知のほうを讃美すべきか、それとも「わがままな大男」の美とやさしさのほうを讃美すべきか、よくわかりません。後者こそ、確かにその種のものとして完璧であります。きみの純粋な「ささやかな散文詩」は、珠玉のごときものであり、書物全体が、繊細なタッチと純正な英語で書かれています。

 

先に挙げたジャンルをこなしながら、童話まで読むに値する作家は彼以外いない。有島武郎は優れた小説と童話を残しているが、詩や戯曲ではそれほどでもない。また、ジャン=ポール・サルトルは興味深い小説や戯曲、文芸批評を発表しているけれども、童話を書いてはいない。寺山修司は最も彼に近い領域をカバーしたが、唯一、小説を得意としていない。これほど言語表現の万能性を具現化した作家は、歴史上、皆無である。しかも、彼は『ポール・モール・ガゼット(The Pall Mall Gazette)』紙の書評家や『婦人世界(The Woman's World)』誌の編集者も務めている。彼はまさにヴィクトリア朝の雑多さを一身に引き受けている。彼よりも傑出した小説家や詩人、戯曲家はいるだろう。しかし、書くという行為において彼は史上最高のオールラウンド・ライターである。文学界のウィリー・メイズと言ってよい。作家としてのトータルな潜在能力はウィリアム・シェークスピアやヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーに匹敵する。

 

There's a new sensation

A fabulous creation

A danceable solution

To teenage revolution

Do the Strand love

When you feel love

It's the new way

That's why we say

Do the Strand

Do it on the tables

Quaglino's place or Mabel's

Slow and gentle

Sentimental

All styles served here

Louis Seize he prefer

Laissez-faire Le Strand

Tired of the tango

Fed up with fandango

Dance on moonbeams

Slide on rainbows

In furs or blue jeans

You know what I mean

Do the Strand

 

Had your fill of Quadrilles

The Madison and cheap thrills

Bored with the Beguine

The samba isn't your scene

They're playing our tune

By the pale moon

We're incognito

Down the Lido

And we like the Strand

Arabs at oasis

Eskimos and Chinese

If you feel blue

Look through who's Who

See La Goulue

And Nijinsky

Do the Strandsky

Weary of the Waltz

And mashed potato schmaltz

Rhododendron

Is a nice flower

Evergreenin'

It lasts forever

But it can't beat Strand power

The Sphynx and Mona Lisa

Lolita and Guernica

Did the (drum)Strand

(Roxy Music “Do the Strand”)

 

たんに優れた作品を書いたのみならず、その生活を独自な美しさで満たしたように、それにも新たな試みを実行している。『サロメ』は最も早いメディア・ミックスの成功例の一つである。この一幕の悲劇はフランス語で書かれ、アンドレ・ジッドとピエール・ルイスのネイティヴ・チェックを経て、一八九三年にパリで出版されている。ヘロデの前で踊る裸体のサロメに扮したサラ・ベルナールを見たいという執筆動機があったが、聖書の登場人物の描写は当時のイギリスの演劇ルールに反していたため、初のワールド・ツアー女優によるロンドン公演が中止になっている。”I sometime think that God, in creating man, somewhat over-estimated His ability”(Oscar Wilde).翌年、アルフレッド・ダグラス卿による英訳を彼自身が大幅に修正し、オーブリー・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley)の挿絵をつけてイギリスで出版される。日本の浮世絵やイギリスのラファエル前派に衝撃を受けた若者のイラストは、大きな黒白の色面、鋭敏な輪郭線、豊かな装飾性、遠近法の拒否、人体の比例の否定といった特徴があり、その幻想性と官能性が物議となり、『サロメ』は最もセンセーショナルでスキャンダルな作品として知れ渡る。彼はこの挿絵を嫌っていたが、この夭折の天才は画家と言うよりも、イラストレーターないしグラフィック・デザイナーであり、世紀末の版画やポスター、イラスト、ポルノグラフィーに大きな影響を及ぼしている。二〇世紀に入ってからも、山岸涼子のマンガにもそれが見てとれる。『サロメ』はビアズリーの挿絵なしには今ではイメージできない。パリにおいて、念願のサラ・ベルナール主演による『サロメ』の初演が同じ年に行われ、話題になっている。彼の戯曲は、前年の『つまらぬ女』を代表に、フランスで人気が高い。さらに、一九〇五年、ドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウスがオペラにし、一八年と二三年、五三年に、アメリカで映画化され、一九八七年(イギリス)と二〇〇一年(スペイン)、『サロメ』の舞台を絡めた映画が製作されている。

 

LA VOIX DE SALOMÉ: Ah! j’ai baisé ta bouche, Iokanaan, j’ai baisé ta bouche. Il y avait une âcre saveur sur tes lèvres. Était-ce la saveur du sang? …Mais, peut-être est-ce la saveur de l’amour. On dit que l’amour a une âcre saveur…Mais, qu’importe?  Qu’importe? J’ai baisé ta bouche, Iokanaan, j’ai baisé ta bouche.

[Un rayon de lune tombe sur Salomé et l’éclaire.]

HÉRODE [se retournant et voyant Salomé] Tuez cette femme!

[Les soldats s’élancent et écrasent sous leurs boucliers Salomé, fille d’Hérodias, Princesse de Judée.]

 (“Salomé, Drame en un Acte”)

 

 『サロメ』でもそうだけれども、彼が同一視して主張するデカダンスと審美主義は、本来、別の概念である。前者は反ブルジョア的姿勢であり、後者は「芸術のための芸術」運動を指す。両者の微妙な調合が彼の芸術に対するスタンスである。

言うまでもなく、デカダンスと審美主義の立脚する社会的・歴史的背景は共通している。民主制の進展、普通教育の実施、資本家による搾取、貧富の差の拡大などの産業革命がもたらした社会の変化、また、進化論や聖書の歴史学的研究によって根拠を揺るがされた宗教の再検討、すなわちモダニズム運動は人々にとって最大の関心事である。文学に啓蒙という使命を要求した啓蒙主義への反発と共に、産業革命に象徴される合理性・功利性追求の風潮に対する危機意識は、パリやロンドン、ベルリン、ウィーン、ペテルブルクといったヨーロッパ各都市の文学者・芸術家に共有されている。

デカダントは進歩への信仰や因習的な道徳観、拝金主義、科学への妄信、物質文明賞賛といったブルジョア道徳への反抗を通じて、自己を表現する。ブルジョアは、『理想の夫』で描かれている通り、世間と同じ方向を向いているから自分は進歩的なのだと信じている保守主義者である。『幸福な王子、そのほかの物語』をジョン・ラスキンやウィリアム・E・グラッドストンに献呈しているように、デカダンスは時代や社会に対するある種のバランス感覚が不可欠である。のめりこみは野暮であって、真にそれとは言えない。デカダントの究極の姿がダンディである。シャルル・ボードレールの『現代生活の中の画家』によると、ダンディは精神主義や禁欲主義と境界を接した「自己崇拝の一種」であり、「独創性を身につけたいという熱烈な熱狂」であって、「民主制がまだ全能ではなく、貴族制がまだ部分的にしか動揺し堕落してはいないような、過渡期にあらわれ」、「デカダンスにおける英雄主義の最後の輝き」である。そのダンディズムの対極にあるのがスノビズムである。スノッブは、鈴木道彦の『プルーストを読む』によると、「一つの階層、サロン、グループに受け入れられ、そこに溶けこむことを求めながら、その環境から閉め出されている者たちに対するけちな優越感にひたる人々」である。新興のブルジョアジーは典型的なスノッブであり、それを批判する態度がダンディであるが、しばしばそのポーズがスノッブの意識に基づいている。デカダントたらんとするには毅然であるかに見えて、柔軟な感覚が必要である。

他方、「芸術のための芸術(L’art pour l’art: Art for Art´s Sake)」はニヒリズムの時代における芸術運動である。神の死により芸術は根拠を失い、自ら芸術と規定し、芸術として振る舞わなければならない。Art of art, by art, for art, shall not perish from the earth.

海野弘は、海野弘=小倉正史の『現代美術』に所収されている「〈モダン・アート〉とはなにか」において、神の死以降の芸術の運動性について次のように述べている。

 

階級的保護を失い、現代の商品社会、広告社会に投げこまれたモダン・アートは、商品化を避けることができず、その差異性を示すためのことば(宣言、広告)を持たなければならなかった。モダン・アートの特徴である、ことばの重要性をそれは予告している。美術がこれほどたくさんのことばを持ったことはなかった。美術があって、それを語ることばがくるのではなく、むしろ、まずことばが発せられ、そのことばにうながされて、美術作品があらわれるといっていいほどだ。

このような、ことば(観念、記号)の先行性からして、批評がそれまでとは比較にならないほど大きな影響力を持つようになる。批評家はモダン・アートの秘密をにぎる権威として振舞うようになる。モダン・アートは難解であり、一部のエリートによって解読できるという神話がつくりあげられる。

 

芸術は、階級的保護を失うと、時代の、普遍的な、支配的様式であることをやめて、諸〈運動〉に解体する。モダン・アートは、〈運動〉という様態をとるのである。

 

 一九世紀において、芸術は「運動」の形態をとり、前衛がその方向性を誘導する。運動は、物理学的に、力の方向である。「前衛」という概念は、ピエール・プルードンなどの社会主義者によって、戦争の戦略から援用されている。前衛であることは時代の最先端を意味する。

審美主義もそうした芸術運動の一つである。一九世紀後半、「芸術のための芸術」が先鋭化し、文化全体の中で大きな存在感を示すようになる。一八三〇年に起きたフランスの七月革命後の挫折をきっかけに、テオフィル・ゴーティエやテオドール・ド・バンビル、ルコント・ド・リールがこの主義の先頭に立ち、六〇年以降の高踏派の詩人たちはこれを継承している。芸術はそれ自体のために存在するのであって、社会変革や道徳的教導など現実世界の目的に奉仕するのではない。

彼はこうした審美主義に決して耽溺していない。彼の傑作は一八九〇年代に書かれている。審美主義の全盛は一八八〇年代であり、その頃には時代遅れと見られるようになっている。ニヒリズムの下で、作家の根拠も失われ、芸術家は自らを芸術家と規定し、芸術家として振る舞わなければならない。それでいて、芸術家であることを冷ややか態度で眺めていなければならない。芸術家自身がコンセプチュアル・アートというわけだ。『ドリアン・グレイの肖像』では審美主義者について詳細に記しながらも、その破滅が描かれている。これは審美主義者の悲劇ではない。ポップ・スターの栄光と悲惨である。

 彼は一九世紀にあって、二〇世紀的な認識を持っている。彼のヴィジョンは独特すぎて、同時代的には、その後継者を生み出していない。彼の作品には前衛性とポップ性が融合している。その企ては「アヴァン・ポップ(Avant Pop)」と呼んでいいだろう。アヴァン・ポップの名にふさわしいのは一九七二年にデビューしたロキシー・ミュージックであるが、それが普及するには九〇年代を待たなければならない。高度な資本主義社会ではいかなるものもすぐにポップ化してしまい、口あたりのよい商品として消費される。アヴァンギャルドも例外ではない。ベトナム戦争は現代の戦争が前線のないゲリラ戦が主硫化したことを告げている。前衛が後方と区別され、その重要性が語られる時代ではない。前衛は全体を把握できず、後方からの補給を待っている。芸術における前衛の革新性も失せてしまう。そこで、大衆文化を前衛的にする試みが始まる。ラリイ・マキャフリイが九〇年代アメリカ文化論『アヴァン・ポップ』を刊行し、「アヴァン・ポップ」という概念が普及している。その成果はダリウス・ジェームズの小説『ニグロフォビア』やクエンティン・タランティーノ監督の映画『パルプ・フィクション』に見られる。

 

Make me a deal and make it straight

All signed and sealed, I’ll take it

To Robert E. Lee I’ll show it

I hope and pray he don’t blow it ´cause

We’ve been around a long time just try try try tryin’ to

Make the big time...

Take me on a roller coaster

Take me for an airplane ride

Take me for a six days wonder but don’t you

Don’t you throw my pride aside besides

What’s real and make believe

Baby Jane’s in Acapulco We are flyin’ down to Rio

 

Throw me a line I’m sinking fast

Clutching at straws can’t make it

Havana sound we’re trying hard edge the hipster jiving

Last picture shows down the drive-in

You’re so sheer you’re so chic

Teenage rebel of the week

Flavours of the mountain steamline

Midnight blue casino floors

Dance the cha-cha through till sunrise

Open up exclusive doors oh wow!

Just like flamingos look the same

So me and you, just we two got to search for something new

Far beyond the pale horizon

Some place near the desert strand

Where my Studebaker takes me

That’s where I’ll make my stand but wait

Can’t you see that Holzer mane?

What’s her name Virginia Plain

 (Roxy Music “Virginia Plain”)

 

一九世紀のクラシックはマエストロを生み出したのに対し、二〇世紀のポップ・ミュージックはそれを拒否して、「恐るべき子供たち(Les Enfants Terribles)」(ジャン・コクトー)を創出する。時と共に成長していくのではなく、莫大な才能を前借りしていき、浪費を続け、突然、破産するような早熟の天才がポプュラーにはふさわしい。ある日、急に、何人ものポップ・スターが消え、死んでいっている。ジム・モリソンやジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、リバー・フェニックスなどはキャリアの絶頂期に亡くなっている。ポップ・スターは、だから、ドリアン・グレイを目指す。ただし、彼らには、バジル・ホールワードがいないため、アスレチック・ジムに通い、ジョギングに励み、カロリー制限した食事をとり、カウンセラーにストレスを相談し、整形手術を受けることになる。

 

The artist is the creator of beautiful things. To reveal art and conceal the artist is art's aim. The critic is he who can translate into another manner or a new material his impression of beautiful things.

The highest as the lowest form of criticism is a mode of autobiography. Those who find ugly meanings in beautiful things are corrupt without being charming. This is a fault.

Those who find beautiful meanings in beautiful things are the cultivated. For these there is hope. They are the elect to whom beautiful things mean only beauty.

There is no such thing as a moral or an immoral book. Books are well written, or badly written. That is all.

The nineteenth century dislike of realism is the rage of Caliban seeing his own face in a glass.

The nineteenth century dislike of romanticism is the rage of Caliban not seeing his own face in a glass. The moral life of man forms part of the subject-matter of the artist, but the morality of art consists in the perfect use of an imperfect medium. No artist desires to prove anything. Even things that are true can be proved. No artist has ethical sympathies. An ethical sympathy in an artist is an unpardonable mannerism of style. No artist is ever morbid. The artist can express everything. Thought and language are to the artist instruments of an art. Vice and virtue are to the artist materials for an art. From the point of view of form, the type of all the arts is the art of the musician. From the point of view of feeling, the actor's craft is the type. All art is at once surface and symbol. Those who go beneath the surface do so at their peril. Those who read the symbol do so at their peril. It is the spectator, and not life, that art really mirrors. Diversity of opinion about a work of art shows that the work is new, complex, and vital. When critics disagree, the artist is in accord with himself. We can forgive a man for making a useful thing as long as he does not admire it. The only excuse for making a useless thing is that one admires it intensely.

All art is quite useless.

(“The Picture of Dorian Gray”)

 

労働や生産、勤勉に背を向け、浪費と虚栄、怠惰に耽溺するドリアン・グレイはジョルジュ・バタイユの「普遍経済学」を体現している。それは利潤の増大を追求する古典派経済学=功利主義を逆転し、非生産的な消費を重視する経済学的認識である。

かの図書館司書は、『呪われた部分』において、ブルジョア的生産様式とそれがもたらす秩序について次のように批判している。

 

富を所有する階級として、富と共に、役割上消費の義務を受け継いだにもかかわらず、現代のブルジョアジーの特徴は、この義務に対して拒絶の方針を打ち出したことである。彼らが貴族と異なるのは、内輪で、己れのためにのみ消費することしか承服しなかった点であり、言い換えれば、自らの消費を、できるだけ他の階級の目から隠蔽するようにしたことだ。切り詰めた消費というこの概念に呼応したのが、十七世紀初頭からブルジョアジーの手で育まれた合理主義的諸概念であるが、これらは卑俗な意味での、つまりブルジョア的意味での、ひたすら経済的な世界観という以外に意味を持たない。浪費への憎悪がブルジョアの存在理由であり、正当化である。同時にその恐るべき偽善の原理でもある。 

 

 最近の発展は産業活動の飛躍的成長の結果である。当初この増殖旺盛な運動は過剰の主要部分を吸収することによって戦争活動を抑制した。近代工業の発展は一八一五年から一九一四年までの比較的平和な時期をもたらした。生産力は発展を遂げ、資源を増殖することによって、同時に先進諸国の急速な人口増加を可能ならしめた。しかし成長は、技術の変化がそれを可能ならしめたものの、最後には困難をきたすに至った。それ自体が増大する剰余の産出者となったからだ。最初の世界戦争は現実にそうした限界まで、局部的にすら、到達せぬうちに勃発した。第二のものにしても、体制が今後発展しえないということを意味するものではない。そうではなくて、組織が発展停止の可能性を測定し、何の支障もなかった成長の安易さを享受できなくなったのである。工業生産の余分が近代戦争の、特に第一次大戦の淵源にあるという見方はときおり否定される。しかしながら、両大戦がそれぞれ発汗したものはこの余剰の部分であり、それに異常な熾烈さをもたらしたものは、その夥しさである。

 

バタイユは戦争による大量生産=大量消費の経済効果を論じ、マーシャル・プランを彼の普遍経済学の一例として評価している。戦後の世界資本主義は利潤を最優先にする原理によって発展していくのではなく、アメリカの一方的な援助=消費を通じて達成し得る。合衆国国務長官ジョージ・C・マーシャルは。一九四七年六月五日、ヨーロッパ諸国に協力して経済復興計画を立案するなら、大幅な経済援助を実施してもよいと提案する。ヨーロッパの共産化を防ぐと同時に、ヨーロッパ経済を急速に再建し、アメリカの農工業生産物の市場を確保する目的で、一九四八年から五一年まで合衆国は総額一三〇億ドルの援助を行うが、その九八%が無償である。このヨーロッパ復興計画は成功し、終了時の五二年、西ヨーロッパの工業生産は戦前の三五%増にまで復興する。しかしながら、これはケインズ主義そのものであって、「普遍」と言うよりも、古典派経済学の脱構築である。ジョン・メイヤード・ケインズは、一九三六年に刊行した『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、古典派経済学が前提としていたセーの法則を否定し、産出量、すなわち国民所得の大きさは有効需要の水準によって決定される有効需要の原理を基礎として、失業の原因を明らかにしている。民間の自由な経済活動が失業の解消を含む資源の最適配分を実現するという古典派の完全雇用均衡に対して、かの男爵は有効需要の不足が原因となって失業者が存在しても経済は均衡するのであり、失業の解消には、公債を発行しても公共投資の増加など有効需要を拡大するための公共当局の積極的介入が必要になると主張する。ケインズ主義は第二次世界大戦以前に芸樹へ実践されている。一九三〇年代代、多くの労働者同様、芸術家たちも日々の食事にさえ事欠く状況に陥っている。フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領は、一九三三年、ブレーンであるケイジアンの立案したニュー・ディール政策の一環として、「連邦美術計画(Federal Art Project: FAP)」を実施する。「公共事業促進局(Works Progress Administration: WPA)」は公共施設や建築物のための作品制作を芸術家に微々たる金額で依頼している。五二一九人(一九三六年一一月一日時点)の芸術家が、一九三五年から四三年までに、壁画二五六六点、彫刻一万七七四四点、絵画作品一〇万八〇九九点、版画一万一二八五点、デザイン関連二万二〇〇〇点、ポスター三万五〇〇〇点(印刷部数約二〇〇万部)を制作し、約三五〇〇万ドルの費用が支払われている。FAPは近代以前のパブリック・アートを復興させたわけだが、この新たな芸術は現代の公共性を具現する。ルネサンスの頃とは比較にならないほど大量の作品を依頼し、消費している。かつて芸樹家は作品を受注生産していたが、資本主義の勃興と共に、市場経済に組みこまれる。飽きっぽいディレッタントや無教養の俗物趣味しか持ち合わせていないブルジョアが市場を決めるため、認められない天才が多く生み出されてしまう。しかし、ケインズ革命においては、天才は大量生産され、大量消費される。ケインズ主義の究極の姿が大量生産大量消費を可能にする戦争であり、ニュー・ディールでも十分に回復できなかった合衆国経済は第二次世界大戦によって復活している。バタイユの理論はケインズ主義を言い換えているにすぎない。

ポップ・スターの生涯は生きられたケインズ主義である。近代は、神の死のために、若さを発見し、それに頼ってきた時代である。近代化は少子高齢化を招くにもかかわらず、天才が加齢と共に知識と知恵を深めていくのではなく、急速な成長によりバランスを崩したいびつな存在である。その歪みを補うために、取捨選択の技術もなしに、彼らは愚かの言説を信じてしまう。資本主義の方は若さを求め、それを使い捨てる。早熟の天才は、だから、その才能によって破滅しなければならない。それこそが最大の批判にほかならない。天才が大量生産=大量消費される状況である以上、彼らはその生涯においてもそれを実践しなければならない。天分を未来から前借し、その負債が膨れ上がって破産してしまう。もちろん、最初のポップ・スターである彼も例外ではない。

 一八九五年、彼は、同性愛の関係にあったアルフレッド・ダグラス卿(Lord Alfred Bruce Douglas)にそそのかされ、その父ジョン・シェルトン・ダグラス・クイーンズベリー侯爵(John Sholto Douglas, 8th Marquis of Queensberry)を同性愛者呼ばわりしたとして名誉毀損で告発する。被告は、ボクシングの「クイーンズベリー・ルール」で知られる人物らしからぬ手に負えない癇癪持ちで、執念深い人物であり、その端正な顔立ちの息子も、父親に似て、精神的に不安定かつ自己中心的な厄介者である。以前からせがれの同性愛に腹を立てていた親父が「男色者らしきオスカー・ワイルドへ(For Oscar Wilde, posing as a somdomite(ママ))」というカードを彼が常連のアブノーマル・クラブに残していった事件に馬鹿息子が敵愾心を見せたことから始まる訴訟だったが、彼は自分のスタイルと意見を披露する舞台と認識し、判事や傍聴人に古典を引用しつつ、自由な社会の重要性に関する熱弁を振るう。しかしながら、当時の法廷にはHF・ストーン判事もテレビもなく、結局、起こさなくてもいい裁判で敗訴し、彼は、逆に、一八八五年に施行された犯罪刑法改正条例第一一条に反した同性愛行為の罪で告発され、有罪となり、二年間の重労働を課せられた懲役刑が宣告される。刑務所で、彼は番号でのみ呼ばれる屈辱を味わうことになる。

 

We hate it when our friends become successful

We hate it when our friends become successful

Oh, look at those clothes

Now look at that face, it's so old

And such a video !

Well, it's really laughable

Ha, ha, ha ...

 

We hate it when our friends become successful

And if they're Northern, that makes it even worse

And if we can destroy them

You bet your life we will

Destroy them

If we can hurt them

Well, we may as well ...

It's really laughable

Ha, ha, ha ...

 

You see, it should've been me

It could've been me

Everybody knows

Everybody says so

They say :

 

"Ah, you have loads of songs

So many songs

More songs than they'd stand

Verse

Chorus

Middle eight

Break, fade

Just listen ..."

La, la-la, la-la

(Morrissey “We Hate It When Our Friends Become Successful”)

 

 周囲は彼に大陸に逃亡することを勧めている。同性愛は黙認されていたのであり、当局にしても、彼を逮捕するつもりはなく、収監状はわざと遅く発行されている。しかも、友人たちはペントンヴィル刑務所に収監された彼を逃がすために、所長JB・マニングに一〇万ポンドの賄賂を出そうとしたが、計画は未遂に終わっている。母スペランザが彼にイングランド人から逃げたら、自分の息子とは認めないという手紙を受けとったからである。彼の逮捕によって、イギリスのゲイ社会は地下に潜らなければならなくなり、表舞台に復帰するのは第二次世界大戦後である。彼はゲイ社会の将来について考えてもいない。彼にとって、同性愛はタブーを超えるエロティシズムであり、所属する社会ではない。彼はいつでも「好ましからざる人物(persona non grata)」たらんとしている。

一八九五年、喜劇『真面目が肝心』がロンドンで上演されて成功し、前年の年収は三〇〇〇ポンドにも達していたにもかかわらず、彼は破産して、妻から完全に愛想をつかされている。一八八三年、アイルランドの著名な弁護士の娘コンスタンス・メアリー・ロイドと結婚し、シルルとヴィヴィアンの二児を儲ける。この女性は、結婚当初、二コール・キッドマンのようなバストに乏しい体形だったが、一九八六年、次男の産後の肥立ちのため、アナ・ニコール・スミスといかないまでも、ふっくらとしてから、彼は彼女に対し性的関係を持たなくなっている。彼の好みは少年のような体形である。そんな中、ロンドンの夜にたむろする男娼たちの持つ危険な雰囲気に魅惑され、同性愛へのめりこんでいき、一九九一年、疫病神とも言うべきボジーと出会う。同性愛は彼にとってデカダンスであったけれども、彼が獄中にいた間、コンスタンスは息子たちの後見人を見つけ、「ホランド(Holland)」に改姓し、文通は頻繁であったものの、出獄してからも二度と彼と会うことはない。一八九八年に彼女がジェノアで病死すると、彼は、翌年の二月、かの地に墓参りをしている。

 しかし、彼は、残念ながら、あくまでもブルジョアの世紀に属している。一九世紀のブルジョア社会において、スキャンダルは共同体の強化・排除の装置である。ところが、ポップの世界ではゴシップは売り物である。それは伝説になる。晩年の彼は、多くのポップ・スター同様、スキャンダルによって葬られている。彼は「複製技術時代」の産物であるけれども、写真のもたらす言説のスターである。「例えば、一枚の写真のプリントからは、いくらでもプリントを作ることができる。一枚の『本物の』プリントを求めるなどということは、無意味である」(ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』)。写真はレンズを通す。それはサイズとアングルによって決まり、焦点が定まる。絵画と違い、焦点を複数とれない。このはっきりとした焦点によって明確なイメージを受け手は形成する。一九世紀の画家は写真は絵画を描く際の資料として参考にし、世紀末には、絵画に近づく試みが行われる。当時の写真は絵画のコピーであり、記録媒体にすぎなかったが、次第に、それは絵画の特権性を奪い、その権威を殺す。写真はスキャンダルであり、特権性を剥奪するメディアにほかならない。写真はスキャンダルの排除の機能を強化させる。ところが、動画が登場すると、スキャンダルは排除よりも、話題づくりとして機能している。スキャンダルは当事者を活性化させる。動画は、その瞬間のみを写す写真に比べると、固定したイメージを形成しにくいため、受け手は自分なりのイメージを構成できる。ジャン・ジュネやマーロン・ブランド、マイケル・ジャクソンのように、トラブルとスキャンダルにまみれながら、活動を続けることを別に大衆は非難しない。

 

So it gets to seven

And I think of nothing

But living in darkness

And the diamond lady

Well she’s not telling

I don’t even know her name

It’s amazing

Times have changed

In days of old

Imagination’d leave you standing

Out in the could

Dancing city

Now you’re talking

But where’s your soul

-You’ve a thousand faces

I’ll never know

There are complications

And compensations

If you know the game

Agitated in Xenon nightly

I’ll take you home again

Travel way downtown

In search of nothing

But the sky at night

And the diamond lady

Well she’s not talking

But that’s alright

So I turn the pages

And tell the story

From town to town

People tell me

Be determined

Poor country boy

Too much luck

Means too much trouble

Much time alone

But arm in arm

With my seaside diamond

I’ll soon be home

(Roxy Music “True to Life”)

 

一八九七年に出所してから、彼は大英帝国を離れ、ほとんど独りで大陸を転々とする。その際、彼は大叔父の怪奇小説作家チャールス・ロバート・マチュリン(Charles Robert Maturin)による人気シリーズの主人公の名前を名乗っている。このさまよえるアイルランド人は、以降、二度とドーバー海峡を渡ることはない。

一八九九年、アルコール依存症と頭痛に苦しめられながら、ナイフの刺さったドリアン・グレイさながらに、かつての姿が想像もつかないほど太った彼はパリのオテル・ダルザスに部屋を借りる。この安宿の主人は滞納していた宿泊費を善意で肩代わりして、彼を引きとっている。カトリック教徒として秘跡を受けた翌日の一一月三〇日、そこで大脳髄膜炎のために死亡する。それは二〇世紀まであと一月、ヴィクトリア女王の崩御まで五〇日あまりの出来事である。二〇世紀に最も影響を与えた一九世紀人の一人フリードリヒ・ニーチェの一九〇〇年八月二五日より、ちょっと惜しい。三日後、ロバート・ロスとボジー、レジナルド・ターナーが見守る中、バニュ墓地に埋葬される。

 

There was a cry heard, and a crash. The cry was so horrible in its agony that the frightened servants woke and crept out of their rooms. Two gentlemen, who were passing in the square below, stopped and looked up at the great house. They walked on till they met a policeman and brought him back. The man rang the bell several times, but there was no answer. Except for a light in one of the top windows, the house was all dark. After a time, he went away and stood in an adjoining portico and watched.

"Whose house is that, Constable?" asked the elder of the two gentlemen.

"Mr. Dorian Gray's, sir," answered the policeman.

They looked at each other, as they walked away, and sneered. One of them was Sir Henry Ashton's uncle.

Inside, in the servants' part of the house, the half-clad domestics were talking in low whispers to each other. Old Mrs. Leaf was crying and wringing her hands. Francis was as pale as death.

After about a quarter of an hour, he got the coachman and one of the footmen and crept upstairs. They knocked, but there was no reply. They called out. Everything was still. Finally, after vainly trying to force the door, they got on the roof and dropped down on to the balcony. The windows yielded easily--their bolts were old.

When they entered, they found hanging upon the wall a splendid portrait of their master as they had last seen him, in all the wonder of his exquisite youth and beauty. Lying on the floor was a dead man, in evening dress, with a knife in his heart. He was withered, wrinkled, and loathsome of visage. It was not till they had examined the rings that they recognized who it was.

(“The Picture of Dorian Gray ”)

 

一九〇八年、匿名の女性──後に、ヘレン・K・カルー(Helen Kennard Carew)と判明──が彼の墓地建設費用として二〇〇〇ポンドをロスに寄付する。彼にふさわしい記念碑をペール・ラシェーズ墓地に設置することと記念碑をジャコブ・エプスタインに彫らせることという条件がつけられる。このアメリカ生まれの彫刻家は、ストランド通りの英国医師会ビル(現ジンバブエ大使館)に一八体の裸体像を彫り、当時、ゴシップの渦中にあった芸術家であり、依頼の作品の製作には適任である。一九一四年、この新進気鋭の彫刻家による記念碑が完成する。記念碑は彼の詩 『スフィンクス(The Sphinx)』をモチーフにし、裏面には『レディング牢獄の唄』 からの一節が彫られている。

 

And alien tears will fill for him

Pity's long broken urn

For his mourners will be outcast men

And outcasts always mourn

 

記念碑がペール・ラシェーズに設置されたものの、「イチジクの葉をつけていない裸像を墓地に置いてはならない」という誰が思いついたのかよくわからない法律があったため、パリ警察が墓地管理人に墓石を布で覆うように命じている。多くの人々からの抗議にも当局は譲らず、結局、布はとるもけれども、性器の上にイチジクの葉をつけることで、記念碑が一般公開される。ところが、一九二二年のある夜、学生たちが記念碑をイチジクの葉から解放し、本来の姿に戻そうとしたのだが、皮肉なのか、不器用なのか、力がありあまったせいなのか、葉だけでなく、その下に隠されたものまでもぎとってしまったのである。去勢されたスフィンクスを見たら、ジークムント・フロイトはいかなる精神分析を語ってくれるか興味のある点である。

 彼が亡くなっても、彼が始めた「文学者」のスタイルは継承されている。シュルレアリズムや未来派、スコット・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイ、ボリス・ヴィアン、ノーマン・メーラー、トルーマン・カポーティ、三島由紀夫、田中康夫など挙げればきりがない。メディアを意識して活動しようとする限り、彼を反芻せざるを得ない。われわれが彼の生涯と意見を考えるとき、彼が一世紀以上にも亘って影響を与え続けていると実感する。それは一つのフランチャイズ体制である。「いらっしゃいませ。こんにちは。オスカー・ワイルドへようこそ」。消費されても、消費されても、彼は自身を無尽蔵に生産する。いかにも不完全な、完璧ではない彼ではあるけれども、それでもこんな彼からなお得るべき多くのものを持つかもしれない。われわれは人生の喜びと芸術との喜びを学ぼうとして彼のもとに訪れる。おそらく、彼は何かもっと素晴らしいもの、悲哀とそれの美との意味をわれわれに教えるために選ばれたのである。”I never put off till tomorrow what I can possibly do- the day after”(Oscar Wilde).

Your lovely friend Sebastian Melmoth.

PS

 昨年を思い返せば、恥ずかしきことの数数、今はただ、反省の日々を過ごしております。

〈了〉

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